氏子が喪服で神事に参加。羽曳野の応神祭。ホムダワケの魂は1600年経っても生きている。/新井信介 「京の風」

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氏子が喪服で神事に参加。羽曳野の応神祭。ホムダワケの魂は1600年経っても生きている。

 こんにちは。

9月15日、16日と、大阪でいろいろありました。

台風が来たので、土曜日の夜には信州に戻りましたが、このときすでに、9月末に衆議院が解散されるのでは、とメディアに流れていました。

15日、私が夜行バスで大阪の難波に到着し、近鉄に乗り換えた朝7時頃、北朝鮮が発射したミサイルは遠く北海道を越えて、3700キロを飛んで、太平洋に着弾しました。

 この飛距離は、完全に、グアムに届く距離です。

同時刻、我が国の安倍総理は、インドから帰国途中で、もうまもなく日本に到着、というときでした。

北側が、デンデンに対し、何かのメッセージを送ったのでしょう。

このことは、衆議院の解散のことと合わせ、別に書きます。

ところで、

私は、この15日の昼、大阪の淀屋橋で里山交流会に参加しました。二日前に、日本の国土交通省と、財務省が、共同で、日本全国で、所有者が確定しない土地がどのくらいあるか、を調べ出す、と表明したばかりでした。日本の荒れたママの山野・耕作放棄地、さらに、帳簿上の地権者と連絡が付かない土地、ゴミや産廃の不法投棄が繰り返されている土地、権利関係が複雑に入り組み、そこが、中国人などの外国人に売られている土地。などなど。

 自民党の議員は、中国人が水源を押さえている、と聞くと大騒ぎをしていたのですが、彼らは、フクシマの除染ででた汚染土が全国にばらまかれていることには、何も行動を起こさなかった。

この里山交流会に来た人たちは、本当に郷土愛に溢れ、耕作放棄で、農地や田舎が荒れることに、単に嘆くだけでなく、自ら行動を起こしたいとする人間でした。楽しい会合でした。

 その後、羽曳野に向かいました。私はここに、ホムダワケの御陵とされる、誉田丸山陵があるのは知っていましたが、来るのは初めてでした。

 8月7日に、「応神天皇が自分に取り憑いている」という女性と出会い、その女性が、応神からのメッセージとして、

「今、日本人が、世界を統括しなければならない」と言いだし、それを聞いたとき、近鉄線の高安で生まれたお祭り好きの女性が、「9月15日に羽曳野で応神祭があります」と、指摘した。そのとき、私は、これは参加しなければいけないな、と直感したのが、今回の訪問のきっかけでした。あの日も、大変な台風の日でした。

 普通、応神天皇(ホムダワケ)というと、大分県の宇佐神宮(宇佐八幡)を思い浮かべます。この神社は日本全国の八幡の総本社で、そこには、応神・ヒメ神・神功皇后の三柱が奉られています。この神社の神威が、日本の天皇家のもつ神威の元とされてきた。それを示す逸話が、奈良東大寺の大仏の表面を金箔で覆うときの、金に纏わる、大神杜女(オオガノモリメ)の託宣や、弓削道鏡の即位にまつわる宇佐神託事件でした。

 その宇佐神宮ですが、現在はどうなのでしょう。揉め事が続き、女性の宮司が排除され、神社本庁の直轄になっているのです。私は1998年に宇佐神宮にいき、そのとき開かれていた鎮疫祭で、そこで雅楽のみならず、般若心経の読経があることに驚いたことがあります。宇佐神宮の奥宮は背後にある御許山で、ここは卑弥呼と関係する場所です。また宇佐の沖合にある姫島には、比売語曽(ひめごそ)神社がありますが、この神社は、つねに宇佐の神威(権威)と戦ってきた、とその島出身の友人から聞かされていました。

 福岡の宇美生まれとされる「応神」が、敦賀でホムダワケの名を得た後、都(宮居)にしたのは宇治で、その息子(末子)がウジノワキノイラツコ。私は、宇治に8年も住んでいましたから、ウジノワキの悲劇はよく知っているのですが、その父である応神が、なぜ、ヤマトタケルのゆかりだという羽曳野の地で、あの巨大古墳に埋められたのか、少し気になっていましたが、実際に、その意味を深く考えたことはありませんでした。

 私は今回の羽曳野で集まりで、ホムダワケの治世は、実際には、日本列島にいる大王だが、それを慕うものは、半島にも大陸にもいた。このとき、ホムダワケは一時的ではあれ、中華皇帝の地位に立っていた、と自説を話しました。それを指摘するのに縄文時代からの大陸と列島の特性の違いから話しました。

 喉仏を発達させたホモサピエンス(新人)が6万年前にアフリカからユーラシアに出て、それぞれの地域に拡散し生存方法を模索しながら、4万年前に日本列島に到着した。そして、現在の日本人が原種に近いD遺伝子を色濃く残しているのは、まだ文字を持つ前の、音とヒビキでの情報交流を続けていた期間が長かった。それは、最後の氷期のウルム氷期のあとの縄文海進で列島が完全に海に囲まれ、照葉樹林が生い茂る中、多くのイノチとの交流がさらに深まり、その能力は研ぎ澄まされた。多くのイノチと響き合う鋭敏な感覚とマクロからミクロまで見る観察眼がはぐくまれ、それは、6000年前に糸魚川のヒスイを発見することで、それをつかったイノチのネットワークが誕生した。これが、私たちの、日本人の感性・そして、生死を超えて、魂を感じ合う姿だと。ヒスイは、昨年9月24日「日本の鉱物」に指定されたと。

 

  ・・・実は、ここから先は、日付が19日なってから、再び、書いています。

18日の午後4時過ぎまでに書いたものが、また、消されてしまった。一旦、きちんと書き上げて、所用で離れていたのですが・・・。これで、三度目です。

 以下、簡単に書きます・・・。

 宇佐が八幡神として認定されたのは、6世紀のこと。ここが、天皇の権威になるのは、大宝律令のあと、聖武(首皇子)が天皇になってからあとのこと。これは、以後、政治的概念の聖地でした。

 それに対し、この羽曳野の地で埋葬されたのは、生身の人間です。

「羽曳野」の地名がヤマトタケルとの関連であることから、この地が埋葬地に選ばれたというのは、その人物が、「ヤマト」という使命をもっていたことを示します。

 「ヤマト」とは、多くの部族を、一つの屋根の下に入れる、「大きな家」をつくることによって、すべての民を救済する、という政治的意識(使命感)です。これを明確に意識した最初の人間は、3000年前にカナンの地で「イスラエル」を作ったヘブライ人であり、なかでも、常に、天の主宰者(これは、北極星であり、その権能を「ミトラ」や「太一」と呼んだ)と自らが一体で在ろうとする意識を保って、国を造ろうとしたのが、ユダ族です。このとき、そのユダ族に、モーゼなど先達が掴んだ「神の摂理」を文字化して教義を固め、その読解で自らの地位を築いて権力をもったのが、(イエス時代に)パリサイ派といわれた人であるのに対し、自らがつねにその天の主宰者の心(ヒビキ)とつながっていたいとしたのがエッセネ派でした。イエスはこちら側の人間でした。

個々人がストレートに天(これは宇宙の統括者であり、神)とつながり、天の心(神の権能)を探ろうとしたのがミトラの教え(我々は葡萄の粒である。粒が房になるときに神が現れる)ですが、政治的支配者(武力での勝者)が、超越者が掴んだ知見を文字化し、それを「絶対」として支配の道具にしたのが共同主観で、一神教の始まりです。これは、農業生産での「富の分配」で、大きな権力を生み、人間の貴族層を生み出しました。

「農業が史上最大の詐欺である。」 これは、「サピエンス全史」の著者ユヴァル・イア・ハラリの卓見です。農業での生産力が、耕作者以外の多くの人間を養うことができたためです。

この生産力が、多くの文明の利器を生み出しますが、いずれも、自然界と自分を切り離し、自然界からより多くの収奪をすることで人間世界での支配権を強めてきたのです。それが、大王の姿です。人間が発明した文字は、人間が得た知見を記録し、その記録はそれ自体、一人歩きし、多くの人間に知識を届けますが、人間個々人が本来持っていた、自分で森羅万象と向き合って真理を掴もうとする意志をはぐくむよりも、すでにできた人間世界での支配的地位を求める欲求に応えます。また、このとき、農業の生産は、支配者にとって、軍事行動を起こすときに、兵士の兵糧と�%

 

・・・ああ~、また消された。

 まあ、いい。とにかく、今回、応神祭にいって驚いたのは、氏子の女性が喪服で参拝していたこと。

 羽曳野に埋葬された、人間「応神さん」の霊は、1600年を経て、今でも、生きている。

 それだけをここでは書いて、もう止めます。 これ以上知りたい人は、私の勉強会に来て下さい。

 縄文ヌナカワヒメの流れと、「ヤマト」や中華皇帝 の関係は、そのときに。 

 そうそう、人間ホムダワケの死(実体)と、ラテン語の聖書「ウルガタ」の完成(共同主観)は、ほぼ同じ年代でした。これを指摘しておきましょう。

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