18日(金)敦賀~塩津。19日(土)京阪宇治。ツヌガアラシト・息長・応神・宇治で、日本皇統の生成過程を解明する。/新井信介 「京の風」

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18日(金)敦賀~塩津。19日(土)京阪宇治。ツヌガアラシト・息長・応神・宇治で、日本皇統の生成過程を解明する。

 こんにちは。

今週末、「ちはやぶる宇治の未来を創る会」の

  最終章  「ちはやぶる価値」 を浮き上がらせるイベント です。

 18日(金)は、敦賀から、琵琶湖の北端の塩津まで、歩きます。

          午前10時に、JR敦賀に集合し、気比神社に参拝後、25キロ歩きます。

 19日(土)は、午後1時から、京阪宇治で、研究会です。  

 

 参加申し込みは、 代表の森田さんまで。 電話 090-3994-7595 

説明:すでに、一部、ご案内してありましたが、今回は、

  まず、18日(金)に、午前10時にJR敦賀に集合したあと、まず、気比神社に参拝します。

   その後、琵琶湖の北端の塩津まで、塩津街道を歩きます。

  翌日は、宇治から、宇佐、伊勢へと連なる、日本皇室の「権威」の醸成 がテーマです。

関連事項の解説:

① 敦賀の地名の由来は、「ツヌガアラシト(額有角人)」が、崇神(ミマキイリヒコ)に会いたいとして、失ってしまった自分の国からここまで訪れたことによります。しかし、そのときすでに崇神はいなく、息子の垂仁(イクメイリヒコ)が応対し、ツヌガアラシトは、このあと、半島の辰韓(新羅)方面に行き、そこに国を持ちたいといいます。垂仁は父ミマキイリヒコの名にちなんで、その国を「ミマナ」と名付けてくれるようにと頼みました。

 若狭湾のこの「地」に、なぜ、ツヌガアラシトが来たのか? 彼の祖国はどこなのか?ここがまず最初の問題です。この地は、伊吹山を含め、息長氏の支配下で有り、高志(こし)の国の前(さき)でした。

② 九州の宇美で、神功皇后(記が息長帯比売、紀で息長足姫)が生んだ「子」が、武内宿禰(内能阿曽)に連れられて、仲哀の息子達の抵抗を退けながらも、この地にまでたどりつくと(このとき宇治宿禰が支援)、この「地」の神は、夢を見て、それまでの名「イザサワケ」から、「ホムダワケ」に名前を変えて、この「子」に、その名前を与えました。このとき、イルカがあがり、これを、神に対する「御食(ミケ)」に供えました。

③ 「ホムダワケ」と名付けられた「子」は、再び、塩津街道を通って琵琶湖にでて、さらに、宇治の木幡にいき、そこで、宮主矢枝姫と契って、宇治に都を開いた。これが、応神天皇。

 そのとき、ウジノワキが生まれ、後継者になったが、(ホムダワケの養子となった)長男の大山守を殺害してしまい、大いに悩み、次男のオオサザキ(仁徳)との後継争いがおき、自ら自害してしまった。

 この悲劇は、以後、「悟りのウサギ」の話とともに平安時代まで、ずっと語り継がれていた。

 特に皇極・斉明時代には、額田王は、次の歌を三回も詠んでいる。

 秋の野の 美草 刈り葺き 宿れりし、莵道(宇治)の都の 仮廬(かりほ)し おもほゆ

④宇治で都を建てたホムダワケは、欽明(ヒロニワ)時代に、三輪山に本拠をもつ神官の大神比義によって、宇佐の地で、八幡神と認定された。なぜ、宇佐の地だったのでしょう?

 欽明時代の終わり頃の570年に、高志(こし)に、高麗の使人が到着しているのを、ヒロニワ本人が知ると、飾り船を用立てて迎えに行かせたあと、本人は新羅に使者を出したが、その帰りを待たずに崩御した。

 息子の敏達(ヌナクラタマシキ)が即位し、その3年(574)の元旦に、用明天皇と穴穂部間人郎女の息子として、飛鳥の橘寺で、ウマヤドが生まれたことになっている。ウマヤドは、隋書では、倭の大王アマタリシヒコと書かれた。実像は、西突厥のタルドウ。

⑤592年に敏達の娘の額田部皇女が即位する(推古)と、その次が、舒明(諱で田村、和風諡号で、息長足日広額)。隋書ではリカミタフリと書かれた。舒明は初めて遣唐使を派遣した。

 万葉集の巻1に、「天皇 宇智の野に、御猟(みかり)したまうときに、中皇子(なかのすめらみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして、献しむの歌として、「やすみしし我が大王・・・御執(ミトラス)の・・・」の歌がある。

  反歌は、「たまきわる宇智の大野に 馬並べて 朝踏むすらむ その草深野」

  このときの天皇とは、誰か? 中皇子とは明確に違うが。

⑥白江村の戦いのあとの665年、二月に間人皇女が死去したあと、宇治に唐の占領軍指令官にあたる朝散大夫上柱国の劉徳高が訪れ、閲兵をしている。翌年元旦に、唐では、高宗李治が泰山封禅。

⑦宇佐に社殿が造られたのは、首皇子(聖武)即位の翌年、725年で、このとき、ホムダワケは八幡大神として祀られた。さらに、天平宝勝元年(749)、東大寺の大仏造像で鋳造が終わったあと、表面の金メッキに必要な金の手当が不安になると、金はまちがいなくある、と託宣を出したのが宇佐の女禰宜だった大神杜女。以後、宇佐の神(ホムダワケ=八幡神)は、日本の天皇の権威を裏付ける神となった。

⑧宇佐の圧倒的な神意は、弓削道鏡の即位問題でも使われた。神護慶雲3年(769)太宰主神(だざいのかんのつかさ)で、宇佐の神官でもあった中臣習宜阿曽麻呂(なかとみすげのあそまろ)が、宇佐八幡神の神託として、道鏡を皇位につければ天下太平になると、称徳女帝に奏上し、女帝を喜ばしたが、これに和気清麻呂が待ったをかけ、宇佐に対する再度の神伺いで、道鏡は認められなかった。これはなぜか? このとき、称徳女帝は怒って、清麻呂を、なぜ、大隅に流したのか?

⑨伊勢の地を持統が尋ねたのは、則天武后の即位に合わせた690年の三月で、このとき、田造りの一番忙しい農作業の時期で、三輪高市麻呂が行幸を止めるよう必死で懇願した。この伊勢行きを、皇国史観では、第一回式年遷宮にしている。そのあとに、伊勢神宮の内宮の造営に入るが、ここでは、皇祖神アマテラスが祀られ、その神域には、天武が祈った、伊雑宮の「太一」は入れない、と境が設けられた。さらに、内宮の前には五十鈴(イスズ)川が流れ、それを渡る橋は、宇治橋と名付けられた。

⑩平安時代に絶対の権勢を築いた藤原道長は、この宇治の地に何度も通い、そこを、別業(べつごう)の地と名付けた。その道長が臨終で苦しむのを見て、息子の頼道は、極楽浄土を願って、その地に平等院を建てた。さらに、その向かいの、かつての応神天皇の都(離宮)の地には、すでに、宇治ニ社があったが、ここに、宇治上神社を設け、莵道雅郎子命 応神天皇 仁徳天皇 の3柱を祀った。 

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