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日本のアイデンティティー

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18日(金)敦賀~塩津。19日(土)京阪宇治。ツヌガアラシト・息長・応神・宇治で、日本皇統の生成過程を解明する。

 こんにちは。

今週末、「ちはやぶる宇治の未来を創る会」の

  最終章  「ちはやぶる価値」 を浮き上がらせるイベント です。

 18日(金)は、敦賀から、琵琶湖の北端の塩津まで、歩きます。

          午前10時に、JR敦賀に集合し、気比神社に参拝後、25キロ歩きます。

 19日(土)は、午後1時から、京阪宇治で、研究会です。  

 

 参加申し込みは、 代表の森田さんまで。 電話 090-3994-7595 

説明:すでに、一部、ご案内してありましたが、今回は、

  まず、18日(金)に、午前10時にJR敦賀に集合したあと、まず、気比神社に参拝します。

   その後、琵琶湖の北端の塩津まで、塩津街道を歩きます。

  翌日は、宇治から、宇佐、伊勢へと連なる、日本皇室の「権威」の醸成 がテーマです。

関連事項の解説:

① 敦賀の地名の由来は、「ツヌガアラシト(額有角人)」が、崇神(ミマキイリヒコ)に会いたいとして、失ってしまった自分の国からここまで訪れたことによります。しかし、そのときすでに崇神はいなく、息子の垂仁(イクメイリヒコ)が応対し、ツヌガアラシトは、このあと、半島の辰韓(新羅)方面に行き、そこに国を持ちたいといいます。垂仁は父ミマキイリヒコの名にちなんで、その国を「ミマナ」と名付けてくれるようにと頼みました。

 若狭湾のこの「地」に、なぜ、ツヌガアラシトが来たのか? 彼の祖国はどこなのか?ここがまず最初の問題です。この地は、伊吹山を含め、息長氏の支配下で有り、高志(こし)の国の前(さき)でした。

② 九州の宇美で、神功皇后(記が息長帯比売、紀で息長足姫)が生んだ「子」が、武内宿禰(内能阿曽)に連れられて、仲哀の息子達の抵抗を退けながらも、この地にまでたどりつくと(このとき宇治宿禰が支援)、この「地」の神は、夢を見て、それまでの名「イザサワケ」から、「ホムダワケ」に名前を変えて、この「子」に、その名前を与えました。このとき、イルカがあがり、これを、神に対する「御食(ミケ)」に供えました。

③ 「ホムダワケ」と名付けられた「子」は、再び、塩津街道を通って琵琶湖にでて、さらに、宇治の木幡にいき、そこで、宮主矢枝姫と契って、宇治に都を開いた。これが、応神天皇。

 そのとき、ウジノワキが生まれ、後継者になったが、(ホムダワケの養子となった)長男の大山守を殺害してしまい、大いに悩み、次男のオオサザキ(仁徳)との後継争いがおき、自ら自害してしまった。

 この悲劇は、以後、「悟りのウサギ」の話とともに平安時代まで、ずっと語り継がれていた。

 特に皇極・斉明時代には、額田王は、次の歌を三回も詠んでいる。

 秋の野の 美草 刈り葺き 宿れりし、莵道(宇治)の都の 仮廬(かりほ)し おもほゆ

④宇治で都を建てたホムダワケは、欽明(ヒロニワ)時代に、三輪山に本拠をもつ神官の大神比義によって、宇佐の地で、八幡神と認定された。なぜ、宇佐の地だったのでしょう?

 欽明時代の終わり頃の570年に、高志(こし)に、高麗の使人が到着しているのを、ヒロニワ本人が知ると、飾り船を用立てて迎えに行かせたあと、本人は新羅に使者を出したが、その帰りを待たずに崩御した。

 息子の敏達(ヌナクラタマシキ)が即位し、その3年(574)の元旦に、用明天皇と穴穂部間人郎女の息子として、飛鳥の橘寺で、ウマヤドが生まれたことになっている。ウマヤドは、隋書では、倭の大王アマタリシヒコと書かれた。実像は、西突厥のタルドウ。

⑤592年に敏達の娘の額田部皇女が即位する(推古)と、その次が、舒明(諱で田村、和風諡号で、息長足日広額)。隋書ではリカミタフリと書かれた。舒明は初めて遣唐使を派遣した。

 万葉集の巻1に、「天皇 宇智の野に、御猟(みかり)したまうときに、中皇子(なかのすめらみこと)の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして、献しむの歌として、「やすみしし我が大王・・・御執(ミトラス)の・・・」の歌がある。

  反歌は、「たまきわる宇智の大野に 馬並べて 朝踏むすらむ その草深野」

  このときの天皇とは、誰か? 中皇子とは明確に違うが。

⑥白江村の戦いのあとの665年、二月に間人皇女が死去したあと、宇治に唐の占領軍指令官にあたる朝散大夫上柱国の劉徳高が訪れ、閲兵をしている。翌年元旦に、唐では、高宗李治が泰山封禅。

⑦宇佐に社殿が造られたのは、首皇子(聖武)即位の翌年、725年で、このとき、ホムダワケは八幡大神として祀られた。さらに、天平宝勝元年(749)、東大寺の大仏造像で鋳造が終わったあと、表面の金メッキに必要な金の手当が不安になると、金はまちがいなくある、と託宣を出したのが宇佐の女禰宜だった大神杜女。以後、宇佐の神(ホムダワケ=八幡神)は、日本の天皇の権威を裏付ける神となった。

⑧宇佐の圧倒的な神意は、弓削道鏡の即位問題でも使われた。神護慶雲3年(769)太宰主神(だざいのかんのつかさ)で、宇佐の神官でもあった中臣習宜阿曽麻呂(なかとみすげのあそまろ)が、宇佐八幡神の神託として、道鏡を皇位につければ天下太平になると、称徳女帝に奏上し、女帝を喜ばしたが、これに和気清麻呂が待ったをかけ、宇佐に対する再度の神伺いで、道鏡は認められなかった。これはなぜか? このとき、称徳女帝は怒って、清麻呂を、なぜ、大隅に流したのか?

⑨伊勢の地を持統が尋ねたのは、則天武后の即位に合わせた690年の三月で、このとき、田造りの一番忙しい農作業の時期で、三輪高市麻呂が行幸を止めるよう必死で懇願した。この伊勢行きを、皇国史観では、第一回式年遷宮にしている。そのあとに、伊勢神宮の内宮の造営に入るが、ここでは、皇祖神アマテラスが祀られ、その神域には、天武が祈った、伊雑宮の「太一」は入れない、と境が設けられた。さらに、内宮の前には五十鈴(イスズ)川が流れ、それを渡る橋は、宇治橋と名付けられた。

⑩平安時代に絶対の権勢を築いた藤原道長は、この宇治の地に何度も通い、そこを、別業(べつごう)の地と名付けた。その道長が臨終で苦しむのを見て、息子の頼道は、極楽浄土を願って、その地に平等院を建てた。さらに、その向かいの、かつての応神天皇の都(離宮)の地には、すでに、宇治ニ社があったが、ここに、宇治上神社を設け、莵道雅郎子命 応神天皇 仁徳天皇 の3柱を祀った。 

日本発で、世界人類を主導する原理とその地位を得るには? 応神の真実を知れ!!

  こんにちは。

 まず、宣伝です。 8月18日、19日 http://chihayaburu-uji.com/blog/  塩津街道と応神の正体。

          9月30日、10月1日、 ヌナト・ツアー 南近江

1)実は8月7日の台風の日。私は私用で大阪に行っていました。その日の夜行バスで信州中野に戻る予定が、バスの運行が中止になり、やむなく大阪で一泊し、翌日、近鉄を使って名古屋経由で戻ってきました。

 このとき、その7日、実は不思議な女性たちに会いました。

  なんでも、応神天皇の霊に導かれているというのです。

 何をしたいのですか? と尋ねると、

 「日本発で、人類世界を統括したい。これが、ホムダワケの願いです」 というのです。

 日本の神社で最も多くあるのが八幡さまで、これは、いずれも実在の人物ホムダワケ(応神天皇)を祀っているものです。

 ホムダワケについては、記紀の記載と各地の伝承では、不思議で不明なことが誠に多い。

 まずその陵墓は羽曳野の誉田丸山古墳ですが、ここから、以下の北燕時代の馬具が出土しています。image    

 《国宝 龍文透彫鞍金具(りゅうもんすかしぼりくらかなぐ)

北燕は407~436までの短期王朝ですが、五胡十六国の中では珍しく、漢人の王権です。最後の王は、馮弘でした。この馮氏から北魏に嫁いだ女性が馮太后(ふうたいごう)で、彼女は高句麗の長寿王(広開土王の息子)と親しく、元は鮮卑族だった拓跋氏の北魏を、見事に中華の正統王朝へと脱皮させた功労者でした。北魏の孝文帝が493年に洛陽に遷都する裏には、「洛陽」の意味を教える彼女の存在が在ったにちがいありません。
 
 羽曳野に葬られた、応神(ホンムダワケ)と、中国王朝の盛衰が、無関係であるはずはないのですが、こうした事実は、古事記・日本書紀共に、全く記載されていません。

 日本列島に最も多くの神社があり、そこで祀られる実在の人物について、完全に大陸との関係を消している。これが、皇国史観なのです。

2)日本書紀を見てみると、そのホンムダワケの出生から即位までの全てが、奇妙な事ばかりです。

 そもそも、福岡の宇美で、新羅遠征から戻ったばかりの息長帯(神功皇后)が生んだことになっていますが、このとき、父であるはずの仲哀天皇は香椎宮の地にいて、暗闇の中で武内宿禰に殺された。以後、この宇美の地で生まれた「子」の東征が始まります。

 明石では、仲哀の次男の香坂王が待ち受け、殺害を試みますが、そこに赤いイノシシが現れ、香坂王は殺され、現在の神戸の地では、息長帯は息子の即位を願います(これが、神戸のユズルハ神社)。

 宇治川では仲哀の長男、忍熊王が待ち構えますが、武内宿禰は先に用意していた偽の武器を解除して見せ、相手の押熊王にも武装解除を迫り、丸腰になったところに、本物の武器を持って襲いかかり、押熊を以後は琵琶湖に追い詰め、自害させた。

 このとき、宇治にいた「土地の長」が、その宇美生まれの「子」を、宇治川から琵琶湖・そして敦賀まで案内したとして、後に、宇治土公の名を得て、伊勢の猿田彦神社の宮司で社家になった。

 敦賀では、その「地」にいた「イザサワケ」なる神が、この「子」の到着によって夢を見て、以後は「ホムダワケ」と名前を変え、それを祝うかのように、イルカが打ち上げられ、土地の神に「御食(ミケ)」として供えられた。

 「子」は、このときから、自らをホムダワケと名乗り、敦賀から琵琶湖に出て南下し、さらに、宇治の木幡にきて、そこで美しい娘「宮主矢枝媛(ミヤヌシヤカワエヒメ)」を得て、彼女と契って倭国の大王になって、宇治の地に都を開いた。

 ここまで、「宇美で生まれたばかりの赤子が、瀬戸内・琵琶湖をへて敦賀に行って、ホムダワケの名前を得て、宇治に戻って、その地の聖女と契って子供(ウジノワキ)をなす。」 これが、ホムダワケ、すなわち、応神天皇。

 この人物を、欽明時代の568年に、三輪山が本拠の大神氏の比義が宇佐で、「八幡神だった」と認定しました。

3)さらに、このホムダワケ=「宇美生まれの「子」」には、日本書紀では、すでに何人も兄がいることになっていて、長男が大山守。次男がオオサザキ。で、ウジノワキは、末子ということになった。これは、ウジノワキ以外は養子でしょう。ホムダワケは、末子のウジノワキが可愛いと言って後継者に指名して崩御したが、長男の大山守がウジノワキを殺そうとしている、と、オオサザキががウジノワキに教えると、ウジノワキは、奈良方面から来る大山守に対し、宇治川の船頭に化けて待ち伏せし、そこで討ってしまった。

 以後は、次男のオオサザキ(仁徳)との皇位の継承争いになった。オオサザキが淡路島から河内(八尾)に陣を進め、ウジノワキに退位を迫ると、ウジノワキは戦いを嫌って、自ら宇治川沿いの大吉山に登って自害してしまった。この事実を、インドのジャータカ神話の「悟りのウサギ」になぞらえて、土地の人はウジノワキを弔った。

4)ところで、

 このときのホムダワケですが、その陵墓は、羽曳野市にあり、誉田丸山古墳です。

一方、次男とされるオオサザキは仁徳であり、その陵墓は、堺の大山陵古墳です。

今、大阪府は、これらの古墳群が世界遺産登録に申請するが決まり、大喜びです。当然、この古墳について、今後は世界基準で考古学と歴史学から、厳しい調査・分析が始まります。

 「宇美でうまれた「子」」が、敦賀で名前を得たあと、木幡で子供をなすが、このとき、その子が末子だったというのは、他は養子ということ。死後は王位を巡って兄弟同士が争ったが、そのあとに、羽曳野や堺に巨大古墳が造られた。

これを、どう読み解けばいいのでしょう。

 今回、私は台風の中、近鉄沿線の「高安」に屋敷をもつ女性、そして、神戸の芦屋にすむ女性と一緒でした。「高安」は、今では相撲取りの大関のしこ名として、すっかり有名ですが、これが、実は、高句麗の広開土王の幼名でした。

 母にパルティア(安息)の女性をもつ高句麗王族の子供、それが、「高安」という名の意味です。この子は母といるときは、いつも「安談徳」と呼ばれていた。それが、広開土王です。広開土王の末裔が、新撰姓氏録では、難波連(なにわのむらじ)と書かれています。

 実は、応神・仁徳の時代は、日本列島と高句麗は、一体の王権だった。これが、真実です。

5)そして、その、応神の正体ですが、

「宇美」で生まれた、とするのは、仲哀が死んだときに、正式に、日本列島の中で、王位を窺える「人間」が、その存在が政治的に確立したことをさしています。その上で、その人物が、宇治のあと、敦賀まで行くことで、本人にも、日本列島にも、大きな変化をもたらした。

 この点については、霧島神宮(大隅正八幡宮)に、残された奇妙な縁起の内容が示唆に富みます。

「震旦国(中国)に、陳という大王がおり、その娘=大比瑠女オオヒルメが、まだ7歳にもならないのに、朝日を浴びて身ごもっており、殺すこともできないので、神の意志に任せるとして、船で海に流し、それが着いたところで暮らせ、と捨て去った。それが日本に着き、このとき子供が生まれ、後に八幡神になった」と。

 この縁起が書かれたのは、記紀のずっとあとで、ここには、実際に在った「事実」の伝承の上に、記紀の神代編や、卑弥呼・神功皇后のことを溶け合わせて、この物語が作られています。

 オオヒルメとは、持統による「皇祖神アマテラス」の表現よりよりも、遙か前にあった、九州いた女神の呼称です。

 この縁起では、神功皇后の息長帯とオオヒルメが集合していますが、その子が「八幡神」という点は重要です。この場合、八幡神は、元は、「震旦の血」であると示しているからです。

 ここに、大きなヒントがあると私は考えます。

バビロンの捕囚を経たユダ族が作り上げたのが、秦帝国で、これは二代で終わったが、胡亥や、扶蘇・子嬰の子孫は生き残ったと考えています。

先ほどもあげた新撰姓氏録では、胡亥の血は(キルギスで)弓月国をなし、そこから、功満王・融通王を出したと記し、その血脈は秦河勝に繋がっています。

では、扶蘇・子嬰はどうなったのか? 中国には、4世紀に「大秦」を掲げ、世界帝国の復活を試みた国と大王がいます。前秦のフケンです。東晋との対決では、383年にヒスイの戦いで敗れたが、その前、一時、幽州(北京方面)にいた、従兄弟のフラクがいた。この人物はどうなったのか?

 始皇帝によって確立した中華の皇帝権の正統性を、もしかしたら、日本列島で再現しようと試みたものが、4世紀末に、実際にいたのではないか? これが、私の主張です。

6)それを確かめるためにも、

 この秋は、日本のホムダワケの足跡を追いながら、応神祭でその「神霊」に触れようと思います。まず、

 ① 8月18日(金) 福井の敦賀にいき、気比参拝後、塩津街道をあるき、琵琶湖に出ます。

       翌日、19日(土)は、午後1時から、京阪宇治で、講演会です。

    敦賀は、垂仁時代に、ツヌガアラシトなる人物が到着した事実にちなんだ地名です。この人物は国を失った王とされますが、ユーラシアの中で、実際には、誰だったのでしょうか?   

 ② 9月15日(金)夕刻、羽曳野の誉田八幡で応神祭がありますので、これに参加します。

 そして、

 ③これは株K2Oの企画ですが、9月30日、10月1日に、南近江、ヌナトツアーです。

 

今の日本の皇室の神威は、宇佐八幡ということですが、そこで祀られる、ホムダワケとは何者か?  これを、世界史の流れの中ではっきりさせたいと思います。そこでは、YHWH・ダビデ・始皇帝・イエスなどのヘブライと、始皇帝によって確立した中華皇帝の系譜が、日本列島のもつ「神聖さ」に、どう融合してきたかを、きちんと確認したいとおもいます。 

神と「神」の違いを明確に理解していた、クシャーンのカニシカ王。

◎ 先週の土曜日から、始まった新シリーズ、<神と「神」の歴史>

ここでは、誰かの「観念」=「主観」が、権力者の支持を得て、多くの人間に「共同」されていく課程で、国家や「神」、そして、マネーが、如何に生まれてきたか、を、段階的に、研究します

今回は、第一回なので、クシャーン(大月氏)のカニシカ王までの流れでした

また、参考までに、中国共産党が国民党から大陸の支配権を奪うときに徹底的に弾圧し、根絶したはずの一貫道が、今、台湾や華僑世界で、多くの信者を得ている事実も紹介しました。

 「党の指導に全て従え」という共産党に対し、中国人が始皇帝の時代から考える、宇宙の主宰者「上帝」と、自分自身が純粋に繋がる教えを、過去の宗教の知識を動員しながら編み出したのが、一貫道でした。

   全面融合の「根源的紐帯」から、なぜ、YHWH が生まれ、そこから、キリストが出てくるのか?

その前に、大陸には、6000年前から、宇宙の主宰者の権能を知り、それを掴もうとすることを「ミトラ」といってきた。

 ミトラは、西欧では、確立した既得権(牛)を倒す、象徴にも成りましたが、それは、なぜか?

さらに、匈奴に追われた月氏が、バクトリアで仏教に出会ったあと、北インドのプルシャプラ(ペシャワール)に本拠を移し、そこで、カニシカをうんだとき、ミトラが再度強調された。

 その中で、多くの宗教=共同主観での「神」が述べられ、このときに、仏教は大乗仏教へと飛躍し、その勢いに乗って、後漢の霊帝・献帝時代の三国志の殺戮時代に、吸収されました。

 

◎自然界と溶け込んでいる部族社会では、「共同主観」は、あまりは発達しない。森の民には、アニミズム、祖先崇拝はありますが、そこでは、まだ、国家も宗教もありません 

 国家や宗教は、農業とともに発生した。農業は、自然の改変力であると同時に、人間支配の道具でした。農業は、人類が麦・稲という、穀物を、巨大大河の洪水後の沃土に撒いたことから始まった。

 古代でも、タネ一粒が、100倍以上の稔りに成長する。これは、耕作者以外にも、多くの人間の食をまかなえます。このときから、人間の意識に、「分離」が始まる。それまで、自然界で、「根源的紐帯」を感じ合っていた人間に、大きな変化が出る。

 穀物の巨大な収穫は、それを 備蓄・分配・管理 する立場の人間を創り出し、さらに、次の洪水の発生時期を事前に予測し、さらに外敵から武力でこの「稔り」を守るものは、多くの崇拝をえる。

 自らもまた自然界の一員として、感じているばかりだった神(宇宙の摂理)を、人間自身が、その神の権能を語るようになって、それを文字で書き留めると、権力者が支持する「神」が生まれる。

 

 しかし、そうして語られた「神」は、どんな存在だったか?

 私たちが、どんなに、宇宙を統べる神(摂理・権能)を理解しようとしても、それは、つねに、神の部分でしかなく、より正確に知るには、多くの人間が意見を出し合い、本質を探りあうことで、真実に近づいていく。この部分は、本当に重要で、

 私たちが認識した「神」を、

 <「神」は我々とともに、成長する>と言っていたのが、ミトラの教え(理解)で、

 この教え自体が、シュメール文明と、対比されながら、6000年前から存在したとされます。それは、当時、もっとも気候が穏やかで、曇りなく天と繋がれる、南シベリア(カザフスタン・キルギス)で、始まった。

 宇宙の根源の権能を、ある天才が掴みだし(これはどこまでいっても部分なのですが)、それを、権力者が支持し、権力の源泉として、共同の認識になったのが、「神」で、これが、国家を発生させた

今回は、ギルガメシュ や、 出エジプト後の、古代イスラエルの成立、

 ハランとバビロンでの捕囚、解放されたユダヤ人たちが、作り上げたアケメネス朝ペルシャの統治体制。そこで得た統治ノウハウを、中国大陸で取り入れた秦。 

 アレクサンダーを諭した、仏陀の弟子。完全融和する東の島国への憧れ。ヘブライと日本列島の接触。

 秦の始皇帝の統一 項羽と劉邦 武帝が派遣した張騫

 匈奴に追われながら、武力侵攻ばかりだった月氏が肥沃の地フェルガナを超えて、仏教と出会い、アム川で大月氏になり、北インドに入って5部族合議制から脱し、クシャーン(貴霜)族が王権を確立した。

 その中からAD127に即位のカニシカ王が出る。より多く、より遠くの部族・人間に首都プルシャプラ(ペシャワール)の地にまで来させ、交易させたいとの思いから、カニシカは、ミトラを学ぶ。

それぞれの国で確立していた共同主観の「神」を、ここで自由に話させ、その対話の中で、真に宇宙に存在する、根源の神(天)の姿・権能を探させた。

カニシカに与えられた代表的な称号に次がある。

「シャーヒ・ムローダ・マハーラジャ・ラージャディラージャ・ディーバプトラ・カエサル」

 これは、「シャーヒ」が、月氏の伝統的な「王名」

 「ムローダ」は、サカ族の首長の呼称

 「マハーラジャ」は、インドの王様

 「ラージャ ディ ラージャ」 は、 ペルシャ語で、「王の中の王」

 「ディーバ プトラ」 は、 中国語の「天子」 

 「カエサル」 は、ローマで広まったラテン語の「君主」

 これだけ見ても、6つの異なる文化性を持った人間がカニシカの前に、集まっていたことが分かる。 

 そして、カニシカこそがミトラの体現者とされ、ここで仏教の「光」が原始キリスト教のイエスの「愛」と関係し合って、「小乗」から「大乗」化する。 そして、仏教側に、「救世の光の主が来る」として、弥勒(マイトレーヤー)が生まれてくる。

「共同主観」をぶつけ合って対立するのではなく、より高みにある「共同」の「主観」を得ようとする。これが、人類の融合と科学的進歩をもたらしてきた

 このカニシカ時代を知ることで、

 神(実体の摂理)と「神(主観)」が、人類社会をどう動かしてきたか、よく見えてきます。

 キリスト教の前にあったのが、ユダヤ教。その前が、ゾロアスター教。

 中国では、「太一」を武帝が独占してから儒教の国教化が進み、道家の思想は、カニシカ時代に鍛えられて大乗に変化した仏教(大無量寿教)が、三国志の殺戮時代に入ることで、その仏教の体系化の方式を、道家たちが学んで、晋の時代に道教を成立させた。

 さて、我が国の神道(神ながら)は、いつ、いかにして、発生したのか? このミトラといつ、どのような出会いをしたのか? これは、第二回、第三回で、徐々に明らかになります。

カニシカの時代は2世紀中頃。それから、持統の即位(690)までは、500年以上有ります。

日本列島で、このカニシカの後継者となる人物がいたでしょうか? それは、誰だったでしょうか?

 

◎ 蛇足ですが、報告です。

 今、日本国内に、全ての宗教が集まれる、七福神神社を造ろうとの話が進んでいます。七福神はたとえば、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教、仏教、ビンズー教、儒教、神道、などの主祭神で、それぞれの「共同主観」なのですが、 それを載せる船に当たるのは何でしょうか?

 私は、それこそが、時空を超えたイノチの船であり、勾玉だと、思っています。 

河野太郎が外相。安倍の意志だとしたら豹変。でなければ、どこかからの司令だ。

 こんにちは。

森友、加計の事案で、この内閣改造後、日本の検察の判断(行動?)基準に、変化が出るかもしれません。

 籠池氏は、校舎の建設費の「詐欺」で逮捕されましたが、それに合わせ、森友学園事案の核心部分である、豊中の土地売買での8億円の値引きについて、近畿財務局との交渉場面が録音テープになって、メディアに出てきました。  

 

当時の籠池氏は、自分には安倍夫妻の後ろ盾のあるとして、結構、強気で近畿財務局と価格交渉しながらも、これ政治力使いすぎだ、との実感もあったらしく、万が一問題にあったときに、備えて録音していたのでしょう。

 安倍デンデンは、先月、本省の理財局の佐川氏を国税局長を昇進したばかりでした。

財務省内に、安倍「お友達」内閣に、あまりに肩入れする同僚がいることに反発する人間もいるはずです。その人間は、このテープ流出という事態に、何を考え、何を行動するでしょう。そして、検察は?

籠池逮捕とこのテープ流出と内閣改造が一致していることをみると、文部省、防衛省に続いて、今度は、財務省に対しても、「安倍一強」体制を改めさせないといけない、とするチカラが及び出したと考えます。

 もう、日本国民はみんな知っています。

デンデンと日本会議、そして、経団連の原発マフィアは、自分たちの企業活動のためのコマになる、「愛国」人間を創りたかったのです。「滅私奉公」を信条に、命令通りに必死に戦う企業戦士と、ロボットのごとく動く、自衛隊や警察の現場の人間。

 それは、新自由主義グローバリストたちのなかでも、悪魔的人間たちに支持されていたのです。

彼らは、世界中の金融市場(株・債券・商品)で、戦争や災害をわざと引き起こしてでも、マネーを稼ぎ、しかも、その仕掛けのなかでおきる厄難で、どんなに人が死のうと、それが、却って、人口削減になって好都合だと考える、大バカドモでした。本人たちは、自分たちは最高に知能レベルが高い「神に選ばれた人間だ」とでも任じていたのでしょうが。映画の「インフェルノ」はその暗示でした。彼らは、21世紀の初め(「911」も「311」も含む)まで、人類世界の駆動システムを牽引していたのです。そのなかに、もちろん、二度の世界大戦もありましたし、そこには、明治以後の日本の皇室も財界も関わっていた。

 人類の歴史のなかで、マネーが主役になるのは、1694年のイングランド銀行の成立からで、ここで紙幣の発行が始まったことでした。

 不思議なことに、この翌年に、日本列島の江戸幕府(綱吉時代)では、元禄の金銀改鋳行われ、佐渡奉行だった荻原重秀が勘定奉行になりました。元禄の「松の廊下」事件が、1701年3月で、浅野匠は事件後、即刻、切腹となり、赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入るのは、翌1702年の12月でした。

 17世紀の終わりは、実は、「金融ワンワールド」の誕生でもありました。

しかし、宇宙的視座で視たとき、地球の人類は、イエスの死から始まる魚座の時代が終わって、2013年からは、アクエリアスに入り、2015年9月に主流のチカラが変わり、ようやく、日本列島でも、それが、2017年2月11日から現れてきた。この流れの中で、考えます。

 河野太郎とは、何者か?

 もちろん、河野洋平の実子ですから、対アジアの政治姿勢では、安倍晋三とその背後の日本会議の面々とは、真っ向から対立する立場の人間です。

 デンデンは、もう自分には、99%の人からの支持はない、と田原総一郎から知らされたのでしょうか? 急速に落下する「支持率」を少しでも食い止めるために、AIIB、「一帯一路」に備えた、サプライズなのでしょうか。

 これが、安倍晋三個人の意志・方針?  

私は7月1日の秋葉原で、「安倍ヤメロ」合唱隊のために、安倍演説の主宰者である自民党側が、わざわざ事前にスペースを確保してあったのを実見していますから、これにはもっと深い背景にあるように思えて成りません。

 そうです。日本国の1%どころか、その中のさらなる核心部分、0.01%(1万人)にも満たない、日本列島のウルトラスーパーセレブが、これではいけないと判断し、ずっと、絶好のタイミングを待っていたではないでしょうか?

 デンデンと日本会議からなる、「愛国」陣営は、日本列島の未来をまともに考えていない。赤坂・銀座の高級クラブで、国家権力を語るにしても、こうした、人類全体の動きが見えなかった。

 ウルトラスーパーセレブは、列島民の「血(汗)」を吸い続けますが、彼らは、民を絶対に、絶滅させない。それに対し、「愛国」を語る、半島系の恨みは、列島民を絶滅に追い込みかねない。

こう考えていたのかも。

 どちらにしろ、デンデンは、今回、「お友達優先」は控え、東アジア融和の方向に切り替えですね。外相だった岸田が政調会長になって、自民党の国会議員をどうとりまとめるのか?

あと、神道政治連盟の重鎮で、元衆議院議長だった伊吹文明氏は入閣を固辞した。党派を超えて日本全体を見て動きたいとのことですが、この長老は、京都西陣出身の元大蔵官僚で、とても頭の切れる方ですから、日本の「神道」について、皇国史観のままでは、人類世界に、普遍化はできないと、十分にわかりきっていたことでしょう。

 そして、今、中国については、このままの共産党の支配方式(政治行動)のままで、世界人類の盟主になれるか、世界中で共産党政権の横暴さを監視しています。

中国人に限らず、世界中の誰からも歓迎される、空間・環境・製品・職人気質の技・サービス・清潔感・教養の高さ・郷土愛の発露(文化表現)を、今後も、さらに自発的に生み出せる、『枠組み」を実現できれば、そこが、新時代の価値・美徳・幸福の形の湧出点になるはずです。

ウルトラスーパーセレブも、これには絶対にNOとは言えないはずで、「どうすればいい」「知恵者はいないか」と考えているかも知れません。

「天網恢々、疎にして漏らさず」。小人は虎の威の下で育ち、虎が老いると「策士、策におぼれて」、今「自縄自縛」。どこまでも墓穴を掘り続ける。

 1) 安倍晋三が、生まれ変わっても、絶対に、その意味が分からない(判らない)言葉があります。

 判る(分かる)というのは認識することですが、人間にとって、その認識の深さに、実は、

   知識、見識、胆識(たんしき)の 三段階があります。 

 デンデンはまず、言葉=記号としての「知識」すらも、あやふやでしょう。

 当然ながら、その言葉の意味を、見識の段階を超えて、本当に自分の腹に収めて実践する、という

 胆識の持ち主が、この世にいることに、思い到らないでしょう。

 それは、

    「鷹は飢えても、穂をつまず。」 节操jiécāo之士,虽贫不取不义之财。

    「渇しても、盗泉の水を飲まず。」 志士不饮盗泉之水,廉者不受嗟来之食。

  こうした人間が時代時代に必ずいて、それを、天が、世間には見えないように、味方してきた。

 古今東西の古典や多くの歴史書には、こうした崇高な生き方の人間を拾い出して残し、

 時代を超えて人々の心を支え続けてきました。  それを、中国語では簡単に、

  「好人(ハオレン)有(ヨウ) 好運気(ハオユンチ)」 と 言ってきました。

 私はこの言葉を、1994年頃、社会主義市場経済で混乱する北京で、達観した庶民から聞かされました。

2)総理大臣になっても、これまであまり古典を読んでこなかった安倍晋三にとって、彼の世界観・国家観を築いたのは、祖父岸信介と母の洋子さんの人生体験でしょう。この親子は、一体どんな現実世界にいたのでしょうか? 終戦後、アメリカ(戦争屋)の手の中で巣鴨プリズンから救い出されて延命し、さらに、戦後日本では、その戦争屋が支配する中で、現実的統治権を握った。

 しかし、そのアメリカに戦後の国際政治で支配力をもたらしたのが、ブレトンウッズ会議で決定した米ドル基軸の金本位制金融と、日本の天皇ヒロヒトの無罪を決めた東京裁判でした。

 アメリカという国家自体を生み出したのは1775年からの独立戦争ですが、その独立戦争での軍事費は誰が出したか? イギリス支配に対抗しながら、ジョージ・ワシントンを応援する勢力がいた。それが、イギリスやバチカンまで含めて、金融ワンワールドを創った人間たちで、そのときの金融の元になるGold(金塊)は、どこから来たのか?

 この点の事実と、アジアの関係(中華世界と日本の天皇家)はどうなのか? 

 中国は明がつぶれ、清に成りますが、明の遺臣や客家は、洪門と連携していた。日本列島は徳川幕府の時代ですが、その前、第5代の綱吉の時代に「お犬さま」騒動が起き、このとき、林羅山の弟子の山鹿素行が赤穂坂越の大避神社にいって「中朝事実」をまとめると、それまでの中国礼賛と真逆になり、中華とは大陸のことではなく、日本列島の「本朝」が起源であると言い出して、「将軍よりも天皇」という 「尊皇思想」を作り出した。

 それをそのまま引き継ぎ、その価値観を補強・発展させたのが、平田篤胤や佐藤信淵だった。ここには、裏側に近衛家(鎌足・不比等の直系)や金井家(イカヅチ)がいて、西欧を上手に取り込んで、諸侯連合の国家から中央集権国家に大改造する明治維新と、それを支える天皇像を生み出したのです。

それが、明治維新後は、日清戦争では清国を切り取るイギリスの手先になり、第二次大戦後は、アメリカの戦争屋の支配下になった。しかし、明治にできたウルトラスーパーセレブは、昭和天皇とともに門閥ごとそのまま残り、経済界を指揮する官僚体制と一体のまま、国民が作り出す経済的利益を優先的に享受していたのです。

 ここまでの日本の政治体制の経緯で表面だけ見て、明治のときに新たにできた精神改造の事実をまったく勉強していないのが、日本会議など皇国史観の面々です。 その滑稽な証拠が、実は「忠臣蔵」での『山鹿流・陣太鼓』(の演出)にみることができます。「山鹿流」とは上述した山鹿素行のことなのですが、明治以後、素行は、いつの間にか、絶対に軍事目的を達成する(これを「必達」と言うそうです)「日本軍学の父」と崇められることになったのです。

3)日本の右翼思想の中心組織の一つに、その山鹿素行から、名称を取った「素行会」があります。明治神宮の中に本部をもち、大坂の住吉大社には支部がありました。私もまだ若かった頃、ここによく通いました。しかし、あとあとと判ったことは、素行会のメンバーに限らず、多くの愛国人士は、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵に出てくる、大石内蔵助の「討ち入りの陣太鼓」を、本当にあった事実をとして考えていることでした。しかし、これは、あくまでも歌舞伎の創作でした。

 歌舞伎の台本で、なぜ「山鹿流陣太鼓」が書かれたかというと、中国礼賛から中国蔑視に切り替わった山鹿素行の姿勢に、噴飯する江戸庶民の姿勢に応える、受け狙いだったのです。

 しかし、第二次大戦後、日本人からの復讐をおそれたアメリカの占領軍(なかでも戦争屋)が、「忠臣蔵」の上演自体を禁じていたために、日本の庶民はそれが解禁されると、逆に忠臣蔵そのものを神聖化して、そのまま歌舞伎通りに、それを事実として楽しみました。しかもそれを、政府首脳も官僚たちも経済界も、教育界の識者たちも、いつの間にか同じように楽しみ、江戸庶民の「噴飯」の元など、まるで忘れ去ってしまった。

 そこにはあったのは、戦後も続いた、中央集権での天皇体制(実態は、アメリカへのATM、官僚の無謬性、ウルトラスーパーセレブへの利権と富の最優先)に対し、絶対服従の精神を涵養するテレビドラマ「水戸黄門」と同次元で、国民洗脳はさらに深まって、体制が用意した人生行路でどの枠がマネー獲得で有利になるかという、さもしく貧相な知性(本人はそれを賢い・エライと感じていたようですが)だけだったのです。

 私は、いまでも、ビビッドに思い出します。

 「そんなことすれば、日本の神社界が壊れるぞ」

 これは、イカヅチさんに、日本の天皇の起源の真実を調べたい、と真顔で言ったときの反応です。

 しかし、そのあとイカヅチさんが、縄文からの連続性を調べよ、といったとおり、縄文1万年に、日本列島の人間の意識構造が何で、そこが大陸の人間たちと交流するウチに、いつ、どのようにして、王権が生まれたのでしょうか? 

 不比等が720年の臨終間際に日本書紀をまとめるとき、なぜ、勾玉を、三種の神器の筆頭にしたのか? 

さらに言うと、東大寺の築造以来、埋もれていた(世に出ることのなかった)ヒスイを、なぜ、昨年9月24日に「日本の国石」とするようになったのか?

今、私たちは、まさにこれらの事実を知る段階になりました。それも、知識でも、見識でもなく、胆識として。 

PS: 今日は、京都では、祇園祭のクライマックス 引き回し。

 イマヅチさんの祖父(金井恭之)は、明治維新の後、西欧文明(の利器)を積極的に引き入れるとき、SIONを日本キリスト教団では清音で「シオン」と読ませ、日本の天皇の成立と、実際のヘブライ語の「ジーオン」とは関係ないように見せる工夫をしました。祇園は、SION(ジーオン)の漢訳てす。実際に1948年にイスラエル国家を作り出すことになった、第一回の世界zionist(日本ではシオニスト)会議がスイスのバーゼルで開かれたのは、1897年で、下関条約のあとでした。

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プロフィール

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新井信介(あらいしんすけ)

長野県中野市で昭和32年(1957年)にリンゴ問屋の息子として生まれました。 日本の歴史に圧倒的影響を与え、しかも、世界でもっとも多くの人間の住む国、中国と 商売しないのはおかしい、と、東京外国語大学の中国語学科に進んだ後、 今度は、世の中の現実と構造を知りたい思い、商社に入り、北京駐在員として 自動車・電気機関車などの輸出、さらに、本社では経済協力案件を担当しました。

しかし、88年秋、プラザ合意に始まったバブル経済が過熱していく中、昭和天皇が倒れ、 「金儲けどころじゃない、日本がおかしくなる」と、世直しを決意して退社。 日本の政策転換とバブルの早期処理を訴えましたが、結果は、「失われた20年」になりました。 98年から、「世紀末の大転換」を確信し、著作と講演を進めてきました。


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