「生存」「生活」「冨」。これをキチンと分けて考える。まずは本気になって「生存」から。/新井信介 「京の風」

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「生存」「生活」「冨」。これをキチンと分けて考える。まずは本気になって「生存」から。

 こんにちは。   簡単に。

縄文時代、日本列島には、文字も、マネーも、金属器もありませんでした。

 サインとシンボルはありました。

 主に、音、声で、情報共有を進めました。また、 ヒスイを持ちあって、生命波動を、常に確認していました。

 今の自分の生命、自分を取り巻く自然の生命、自分が思う相手の肉体の状況やココロの姿など、常にリアルタイムで、イノチを感じ合っていました。

 生きるための技や極意は、 修行での体得で、伝えられました。

 縄文人にとって、日本列島の自然は、誰もが共有する食料庫でした。毎年、次々と、いろんな恵みをくれます。

 その自然を、まるごと切り取るようなことは、しなかった。3000年前に稲(水稲)が伝わっても、すぐには、王権は発生しなかった。日本列島での王権の発生は、紀元前100前後。大陸での前漢武帝の時代です。(以前は、稲作をもって、弥生時代といったのですが、今では、金属器の使用と言ったほうがいいようです。)

 私は、日本列島の縄文文化と、大陸(シュメール・ヘブライ、中華文明)の違いを一言で言えば、

  自然の恵みを、自分たちが人間の創意を加えて、さらに増やすか?    それとも、

  人間世界の支配権獲得のために、自然の一部をより積極的に切り取るか? の違いになる と考えます。

 前者の場合、自然がそのまま、人間たちにとっての生存地盤でした。

 それに対し、後者の場合、自然から「切り取られた」大量の穀物を前提にした王権が管理する「冨」が、個々人の生活を支えます。更に、巨大王権では、穀物から転じた金属の貨幣(初期マネー)が「冨」になり、王権の栄枯盛衰と離れて存在し、権力の暴力から逃れるときに使われる、という意味で、人間世界での「生存」という保証もしてきました(中国の人たちは、この部分の「生存」に関する危機意識、すなわち、マネー依存が異常に強いのが特徴です)。

 「冨」とは、 生活をする以上に、多くの余剰を持つことを意味します。

 簡単にいえば、移動手段でいえば、軽自動車であれば十分に足りるのに、自分の好みで高級車を持ったり、普段は全く使わないのに2台、3台とクルマを所有したり、あるいは、客に見せるために豪華な別宅を持ったり、極めて個人的な趣味に、生活費の数倍の金額をかけ、家で仲間と飲めば安く済む酒を、わざわざ高級クラブに行って飲んだり、常にブランド物の衣装を着て、食べきれないほどの高級素材の料理に囲まれて、多くの廃棄物を出し、日頃の生活を離れて、何日も場合によっては、何年間も豪華旅行をし続けたりと、 

 生存にも、生活にも関係になく、浪費できるマネーをもつことが、「冨」です。これは、かなり乱暴な言い方です。現代では、高額所得者や高額金融資産家がこれに当たります。(中国人の場合は、個人の贅沢に加え、亡命や移民をいつでも可能にするためにも、巨大な冨を求めるのです)

 こうなると、当然、その「冨」を目当てに、いろんな人が寄ってくるでしょう。また、家族のなかでも管理は厳しくなり、相続では一悶着があるでしょう。さらに、行政の側から、多くの税負担が求められることもあるでしょう。

 その点、「生活」とは、日々の暮らしが回ればそれでいいのであって、このとき、家のローンや、家族の教育費、さらに、医療費が大きな出費になります。

 私は、基本的に、ローンは嫌いです。 なにか、事業をやるときには、融資を受けたり、仲間からの出資も考えますが、個人生活では回ればいい、としか、考えません。

日々の生活では、どうすれば、より多くの人間が歓迎してくれるのか、どんな生き方が望まれるのか、を考えながらも、別の面では、まだ、普通の人間には認識されていないが、大きな問題になる危険の芽や、待ち受ける避けられない危機がある、と気づいたのなら、事前にそれに備えるべき、といつも考えています。

 危険や危機 ・・・ これには、いろんな次元、段階、種類、性質 のものがあります。

マネーの供給量と資源価格による景気変動は、もう、誰もが知るところで、市場の変化に伴う環境の悪化には、借金をしないで常に用心しなければなりません。

それ以外に、日常の社会生活でも、テロやウィルスなどが蔓延する危機もあるでしょう。

さらに、統治体そのものが壊れ、社会規範が完全に失われるアノミー状態も、場合によっては、起こりえます。この時は、暴力が支配する世界になりますが、ここでは、日頃の人間関係が、危険回避に重要な役割を発揮します。

 今の日本で、今後、どんな世界が来るのか? 

逃れられないのは、なんといっても、高濃度の放射能です。

そして、若者人口の激減です。離農者が増え、耕作放棄地も増えます。

工業化とネットの普及という情報化は、便利さと安直さを蔓延させ、人間個人の「生存」に対する危機感をどんどん鈍感にさせていきます。 コンビニにいけば、とりあえず、何でも揃う。スマホさえあれば、必要な情報が手に入る。 皆、こう考えるのでしょう。

 しかし、私は、日本列島の縄文時代と同じく、多くのイノチが、咲き合う中で、、自分の創造性がどんどん発揮され、「生存」が完全に保証されるだけではなく、すでに、多くの「冨」を持った人たちが、憧れるような「生活空間」が、実現できるはずだ、と考えています。

 そのとき、一番重要なのは、人間個人の「自我」の成熟と、「所有」に対する拘りの部分です。

私的所有権を消しながら、仲間内での共有財産を増やし、その管理方法と適格者を設定し、個々人の働き・成果に応じた待遇(報酬ではない)を、構成員全員の合議のもとで、その都度、与えていく。そして、なにより、個人に大きな私的所有権を発生させない。

 以前、中里博士と、よく話していた内容です。 

こうした、未来のあり方を、追求したいのですが、今は、イノチの次元で、存続が危ぶまれる、大危機が始まってしまいました。

 放射能です。そして、 日本の未来を担う青少年や、若い女性(妊婦さん)たちのことです。

 私が特に問題視しているのは、今の教育現場や大手メディアでの論調が、スポーツやビジネスでのスーパースターを目指せとばかり、何か獲物を追う視線で、今の日常を過ごさせることが主流になり、そのとき、もっとも欠落してしまうのが、自分が、自分自身を取り囲んでいる環境を、実は日々、創っている、という視座です。 獲物(マネーや成功)を追求している内に、どんどん、環境(自然・人間関係)を壊し、自分自身のイノチも、毀損させているのです。 「イノチ溢れる今」に、じっくりと、浸れなくなっているのです。

 それでいて、高齢者がどんどん増え続ける、日本社会。  

何かを追うのではなくて、そこにいるだけで、十分に、幸福が感じられる時間と空間。イノチとの響きあい。

無理のない毎日の暮らし。春夏秋冬、花鳥風月を楽しむ。 しかも、世界中の仲間と、ウソがなく、繋がっている。

 こうした理想も、すべて成立させなくしてしまうのが、イノチを根底から狂わす、原発由来の放射能なのです。  まず、生き残る。そして、文化の核を、浮き彫りにして、保持しながら。

危機がわかったら、事前に備える。 こんなこと、人間なら、アタリマエのことなのですが、・・・・。

 放射能を前に、今、人類社会には、「杞憂」という言葉は、絶対に存在しない。「生存」の基盤までが壊れる話だ。 戦争や飢餓とは、全く次元が違う。まして、国家間の経済摩擦や、景気変動などは「生活」次元の問題だ。

 国会が始まったものの、福島の現状や被曝障害について、全く、声が上がりません。あえて見ないふり。 日本の国会議員なんて、こんなものなのでしょう。 

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