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尖閣「国有化」は、日本「国」外交の歴史的大失敗になりかねない。

以下は、2年前の「尖閣での漁船衝突事件」後に書かれた豊下氏の論文です。

大いに参考になります。

http://www.ritsumei.ac.jp/mng/er/wp-museum/publication/journal/documents/12_p01.pdf

アメリカが、日本国の尖閣に対する領有権を認めていない状態で、「固有の領土」論に乗って、今回、野田政権は「国有」に踏み込みましたが、 これは、とんでもない事態を引き起こすのではないか、と大いに危惧します。

アメリカが、「日本に施政権はあっても領有権はない」といっていた真の意味を取り違えているのではないか。

「911」に登記したことこそが、最大の罠だったのではないか。 

日本国政府が、この尖閣問題を、国際司法裁判所に持ち込んだとき、日本の「領有権」が否定され、「乗っ取り」行為を行った国家として、世界中に恥を晒すだけでなく、多額の賠償が求められるようになるのではないか。

今すぐにでも、「国有化」を解消して、平和のための無国籍地帯にする と宣言したほうがいい。

その一方で、このまま、国際司法裁判所に提訴されれば、国際的な関心を集めることになり、その場で日本という国の正体が明らかになる副作用も生むことになるでしょうから、私は、この部分だけは、歓迎なのですが。

事の起こりは、「固有の領土」という概念が、日米安保体制下で、日本の政治、外交の場で徘徊しだしたことです

人類の歴史において、人間が人間を支配する(秩序立てる)統治体は、武力抗争で誕生し、それを、安定化させるのは、常に「条約」でした。

 多国間や、まだ政治的空白地帯に、この統治体の影響力が及ぶとき、施政権となりますが、それが、国家の主権が及ぶ国家領土となるには、それを認める、国家間の条約が必要です。

「固有の領土」という概念は、この事実を忘れさせるものです。

そもそも、日本「国」の始まりは、いつなのか?

このとき、いつも混同されるのは、天皇の存在です。そして、日本列島での統治体(王権)の始まりとの関係です。

高天原という神々の世界から高千穂に「天下り」したアマテラスの孫ニニギの、そのまた曾孫のカムヤマトイワレビコが、宮崎から日本列島(大八洲)を征服し、奈良の橿原で即位してこの国が始まった、というのが、記紀神話であり、それを、明治政府は絶対の真実にしていましたが、

 アマテラスを奉る伊勢神宮が、すべての神社の頂点になったのも、明治になってから後です。江戸時代までは、香椎宮、岩清水八幡宮、気比神宮と同格の神社として、宇佐神宮の下に位置づけられていました。

「万世一系」の概念も、皇室典範も、明治期にできたものです。

「固有」といった場合、一体、いつからなのか?

国際政治は、あくまでも、条約にもとづくものです。

それよりも、この地球上には、1万年前には人類はいても、国家はなかった。統治体の発生は、大体、6000年前頃からでしょうか。シュメールやエジプト、そして、長江の良渚文化では、王権の発生が認められます。

日本列島は縄文時代で、そのころから、中部以東では糸魚川のヒスイを多くの集落の長が持つようになっていましたが。(注:6000年前の喜界島の爆発で、当時の西日本には、人がいませんでした)

まさか、「固有の領土」というのは、そのころを意識していっているわけではないですね。

また、天皇の呼称は、674年に、ヌナハラオキノマヒト(大海人皇子、後に、天武とされた)が、唐の高宗・則天武后に、対抗して言い出したもので、日本「国」が国家間の条約として認証されたのは、702年。その前年に、大宝律令ができたことが、日本国成立の切っ掛けでした。

その前の日本列島は倭国時代ですが、その「オオキミ」は、卑弥呼のあとの3世紀後半に、その地位が生まれています。

日本国の成立によって、日本列島での統治体は領土が定まったのですが、倭国では、王権あっても、領土はまだ未確定でした。

その前に、古代出雲時代がありましたし、縄文時代から、古代出雲、倭国、そして、日本国誕生まで、どのように統治体(王権)が推移したのか、この国では、8世紀に書かれた「記紀の記載」以外、誰も説明しませんでした。 (しかたがないから、私が、水戸光圀にならって、四苦八苦しながら、やっています。)

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プロフィール

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新井信介(あらいしんすけ)

長野県中野市で昭和32年(1957年)にリンゴ問屋の息子として生まれました。 日本の歴史に圧倒的影響を与え、しかも、世界でもっとも多くの人間の住む国、中国と 商売しないのはおかしい、と、東京外国語大学の中国語学科に進んだ後、 今度は、世の中の現実と構造を知りたい思い、商社に入り、北京駐在員として 自動車・電気機関車などの輸出、さらに、本社では経済協力案件を担当しました。

しかし、88年秋、プラザ合意に始まったバブル経済が過熱していく中、昭和天皇が倒れ、 「金儲けどころじゃない、日本がおかしくなる」と、世直しを決意して退社。 日本の政策転換とバブルの早期処理を訴えましたが、結果は、「失われた20年」になりました。 98年から、「世紀末の大転換」を確信し、著作と講演を進めてきました。

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